とあるIT屋の独白

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多様性と決疑論

ニュースやSNS等で、しばしば多様性という話が出ると思いますが、この多様性という言葉、意外に人によって使い方が違うような気はします。例えば、自分の要求が受け入れられないのは、多様性が十分じゃないからという主張もあるようですが、自分の要求を通すために多様性という言葉を使うのも、少し違うかなとは思います。というわけで、今回は多様性をテーマに、少し個人的に考えてることを書いてみたいと思います。

まず、多様性の定義とは何か、もちろん人によって考えるところは異なると思います。この記事では、以下の記事で紹介されている、

www.living-in-peace.org

多様性とは、通常は同居しづらいものが同居できているときに、他(あるいは過去)との比較において認められる、規範的かつ相対的な概念です。

という定義で、話を進めようかなと思います。この「相対的」という考え方が極めて重要で、例えば外から見て同じような人員構成の組織が2つあったして、一方では同居しづらいものが同居している状態、一方では特に意識することなく同居している状態がありうるということです。なので、同居してる状態でも特に気にしない事項であれば、多様性など考慮せずに物事等が進められると思います。ただ、そこで同居しづらい要素が入り込んだ時に、多様性という考え方が出てきて、物事を進めていくことに課題が出てくると考えます。例えば、元々は日本人だけで進めてた物事に対して、文化や考え方が違う海外の人が参加した場合、どうするかということです。

上記の記事でも触れられていましたが、多様性と困難な対話はセットで考えるべきと思います。つまり、いかに困難な対話に取り組むかを考えないと、多様性を実現するのは難しいと考えます。また、対話において極力自由であることは大事です。ただ、自由とは言っても以下のミルの自由論にある通り「他者の功利を損なわずに自分の幸福を追求する」考えが前提となってくるでしょう。一方の功利を著しく失わせる主張は、多様性や自由以前の問題であると私は考えます。

www.philosophyguides.org


困難な対話において、双方の主張がかなり極端な二元論になってしまうことも、あるかと思います。もちろん多数決という手段も取れなくはないのですが、多様性の思想からは少し外れてしまう感もある気はします。そのような時に、使える考え方の一つとして「決疑論」が挙げられます。決疑論の概要は、下記の記事にまとめられていて、

pe.techno-con.co.jp

問題の解決には明らかに倫理的に問題となる事柄の一端と、逆に問題とされない事柄の一端から、徐々に二つの事柄が曖昧になるところまで比較検討し、その間、どこに倫理と非倫理の線引きを行うかを判断していく手法が最も有効となります。この典型的な方法として決疑論があり、目の前のテーマ(前提条件)に対して、参考にすべき事例と比較しながら、線引きの場所を決定していく方法です。

という考え方です。つまり、両極端の間のグレーな領域において、どこが線引きの地点になるかを思考するというものです。

例えば日本の裁判において、双方の主張で白黒つけると思われがちですが、実際に双方の主張の両方にそれなりの根拠があれば、この決疑論的な考え方が取られることも多いように私は感じます。もちろん日本は法治国家なので、法律をベースに決断が下されるのは言うまでもないですが、法律は事細かなルールを定めたものではありません。以下の記事でも触れられていますが、

gigazine.net

20世紀後半に入ると、体外受精脳死状態の患者の延命措置、安楽死、ドナーから臓器移植を受ける人の優先順位など、法律で裁ききれない多くの問題が出現しました。この状況を受けて、近年では一部の哲学者や思想家の間で決疑論への注目が高まっているそうです。

という現代の状況がある中で、法律が絶対的な物事の判断基準になるとは限らないということです。だから、我々も多様性を実現するにあたって、直面した問題に対してどのような事例があるか、そしてどのように問題解決をしたか、具体的なケーススタディの分析が極めて重要と感じます。具体に目を向けず、抽象的な綺麗事だけ主張するのは、多様性の実現からは遠ざかるように私は考えています。