とあるIT屋の独白

ITや経営について主に書きます

ICC(国際刑事裁判所)と日本

少し前にICC(国際刑事裁判所)の赤根所長が、トランプから制裁を受けたことが話題になりました。ICCは、私もそうですが日本人にはあまり馴染みがないかなとは感じます。そもそもICCとはどのような位置付けで、日本との関係や私の所感などを今回書いてみたいと思います。

ICCの概要としては、以下の記事にあるような戦争に付随する罪の責任を追及する機関となります。そして、国家ではなくあくまで個人に対するという点も重要です。

www.keio.ac.jp

ICCの任務は、ジェノサイド罪(集団殺害犯罪)・人道に対する犯罪・戦争犯罪・侵略犯罪という4つの犯罪を行った個人の刑事責任の追及である。

日本とICCとの関係で言うと、以下の記事にある東京裁判が挙げられます。東京裁判については様々考えがあると思いますが、戦勝国が敗戦国を裁くというのは個人的には不平等と考えています。そして第二次世界大戦中は無かった戦争犯罪の罰則を戦後に作って、個人を裁くというのは果たして中立的なやり方なのかという点も、記事では挙げられています。
そういった仕打ちを過去に受けた日本が、ICCの意義を唱えていくというのはとても重要と私は考えています。

diamond.jp


とはいえ一方で、現状ICCに果たして実効力的なものはあるのかという疑問が出るのも致し方ないと思います。実際にロシアのプーチンやイスラエルのネタヤニフは戦争犯罪を行ったとICCではみなされていますが、特に勾留などもされてなく自国でトップを続けています。また以下の記事の通り、2026年8月時点においてはアメリカや中国といった大国もICCに加盟していません。

d4p.world


では現状そのような状況でICCに存在意義があるのかと言われると、個人的にはあると考えています。なぜアメリカがICCに反発しているのか、それはICCの存在を恐れているからだと私はとらえています。ICCに戦争犯罪と認定されすぐには勾留などされなくても、将来どうなるかは分からないという抑止力的なものは与えることができるし、何より国際機関に戦争犯罪者と認定されること自体がその人の評判を下げることにも繋がりはするでしょう。

www.kyodo.co.jp

実践が伴わない刑事訴追には、その効果を上回る弊害があるかもしれない。ただしそれは短期的に見た結論であり、法の強みは、一個人の人生をも軽く超えて、未来において執行されることが予定されるところにある。その意味では、政治性という議論を超えたところに、国際刑事司法は鎮座しているのかもしれない。

なので、アメリカのような今でも紛争に介入してるような国は、自国民が戦争犯罪と認定されるリスクを嫌うと感じています。ICCは日本国内でも賛否が分かれる存在かと思いますが、私はその人が保守を自認しているならICCを支持すべきと思います。この点はアメリカの保守とは大きな違いかと思います、戦勝国であるアメリカと敗戦国である日本、戦争に対するとらえかたが変わるのは当然とは考えています。
それは戦後保守の重要な論点とも言える東京裁判のことを、どうとらえているかということにもつながると考えています。戦勝国にとっては当然のことではあるかもしれませんが、敗戦国にとっては戦争犯罪を戦勝国が勝手に裁くことなど許されないととらえるかもしません。個人的には、日本人であり東京裁判のようなことを繰り返させてはいけないと考えている人であれば、ICCを何とか維持しその権威の確立に奔走してもらいたいなとは感じます。

社会の複雑性と説明の意義

前回の記事では自己責任と説明責任について取り上げ、日本においては説明責任の意識の希薄さのようなものがあると書きました。

toaruit.hatenablog.com


今回はこの文化的なものを、少し社会的な視点で書いてみたいなと思います。

説明を省くのはコンテキストが共有されている状態だから、コミュニケーション効率がいいという意見はあるでしょう。高度成長期の日本の成長は、このコミュニケーション効率の良さが要因の一つとも考えられます。
ただ、以下の記事にある通りこのコンテキストが共有されている状態は、いわゆる共同体の存在が大きかったという観点はあります。つまり小さい頃から同じ時間を過ごした人達なら、そりゃ説明なんかいらんよね、という状況です。

www.nakahara-lab.net

当時、地方にある工場では、村落共同体の人員構成員が、そのまま工場の職場構成員になるような事態がまま見受けられました。要するに、上司も村の人なら、部下も村の若い衆。職場がそのまま村落共同体を意味していたところが少なくなかったのです。

加えて当時の時代背景として、以下の記事にある通り社会の複雑性もそこまで高くなかったという面はあるでしょう。年長者が積み上げたものを若い人達に伝えれば、それがスキルとして成果が出せる状況にあったのではと感じます。なので、共同体で培われたものを伝承していくような生活・職場環境が整えられていれば、わざわざ説明なんかしなくていいという雰囲気にはなるでしょう。

【「日本的雇用慣行」の成立と定着】
https://www.mri.co.jp/knowledge/insight/20151023.html

人々の嗜好は画一的であり、経済はキャッチアップの過程にあった。企業としては、安価で質の高い労働力が正確な仕事をできることで競争力を高める方向を重視し、その結果として企業内として長期的に人材を育成

それでは、現代(2026年8月時点)においてはどうでしょうか。社会の複雑性も昔から比べると格段に高くなってるし、昔からの共同体のようなものも減り、環境変化の速さによりスキルの陳腐化も起きやすくなっていると感じます。そのような状況で共同体のような思想を持ち出しても上手くいかないだろうし、以下の記事のように新しく入った人がなんとなく腑に落ちないということもあるのではと思います。

note.com

教育も十分とは言えず、「見て盗め」「体で覚えろ」という暗黙のルールが残っている。わからないことを聞きづらく、失敗しても、誰もフォローしてくれない。

というわけで、今の時代は「説明」することの意義が昔より高まっていると考えています。そして以下の記事にある通り、説明する上での「具体」というのも重要と思います。

www.idp-inc.co.jp

例えば、あるメンバーが「みんながこのプロジェクトに協力してくれている」と発言した場合、実際には全てのメンバーが同じ協力度合いでプロジェクトに参加しているわけではありません。一般的な表現によって、特定のメンバーがどれだけの貢献をしているのか、誰が協力に乗り気でないのかといった具体的な情報が欠落しやすくなります。

組織において様々な人がいる現代で、曖昧な表現から齟齬が生まれるということはままあるとは感じます。実際に私もコミュニケーションが上手なほうではなく、ふわっとした伝え方だとあまり伝わってないなという経験もしてきました。したがって説明しなくても伝わるだろうという意識から、説明責任を果たすという意識にシフトすることが必要な時代になっているのだと、自戒を込めて記事として残しておきます。

自己責任と説明責任

このブログで何度か取り上げた「自己責任」というテーマについて、あらためて取り上げてみたいと思います。前に書いた記事でも取り上げましたが、自己責任については以下の考えでありことは私は変わっておらず、自己責任には相応の判断力がある人が負うべきものという認識です。

gendai.media

経済活動における自己責任論の背景には「相応の意思と能力を持った人が参加」することが前提になっており

投資をする意思や能力がない人が、騙されて投資をした場合、自己責任ではなく、被害者という位置付けになるはず

この前提を置くと、筋の悪いものに安易に手を出してしまった人を、自己責任と断定して終えるのはちょっと違う気はします。自己責任の前に、サービス提供側の説明責任は果たされたのか。サービス提供側の責任もきちんと問わないと、いわゆる情報弱者が損をする流れは変わらないと私は考えてます。
そもそも日本においては以下の記事にあるように、説明責任という意識が希薄という視点はあります。いわゆる「言わなくても通じる」という日本的な風潮があるように私は思います。

sba.mukogawa-u.ac.jp

日本の社会には説明責任を果たさないだけでなく、説明責任を求めないという文化的な仕組みがあるよう

批判的な姿勢でサービスについてあれこれ聞くというのは、少し憚られるという気持ちはわかります。あれこれ聞くくらいならサービス受けなくていいよ的な、態度を提供側もとることはあるでしょう。良さがわかる人だけサービスを受ければいいと言って、批判するような外野をシャットダウンするようなことも珍しくはないかなと思います。
ただ、個人的にはそれはあまり健全でないと思っていて、批判を受ける部分を含め可能な限り説明責任を果たす姿勢が提供者としてあるべきなのではと感じます。どんなサービスでも、賛否両論あることは致し方ないことではあります。ただ「賛」ばかりをもてはやすのではなく「否」の部分に対しても向き合うことが、サービスを提供する側も受ける側も今後考えるべきことなのかなと。

さて、この説明を求めないという日本的な文化について、個人的には興味深い点と感じています。観点を変えて、もう少し次回の記事で深掘りしてみたいと思います。

AIにシステム開発を全て任せるのは最適解なのか

2026年8月現在、AIでコード実装等を行うのはかなり一般的になってると思います。個人的な感触では、AIにどこまで任せるかというのは振れ幅が大きい状況と考えていて、いわゆるバイブコーディング的な使い方から、レビュー含めてAIで自動化する使い方まであると思います。今回はAIでの実装について、思うところなど書いてみたいと思います。

あくまで所感ですが、AIに実装を全て行わせて人間がレビューするやり方は、少し筋が悪い感じはしています。AIが大量に生成するコードを人間が完璧にチェックするのは、やはり現実的ではありません。
では、AIに実装を全て任せたいという場合どうすればいいかというと、ハーネスの整備やAIでのレビューを行うという発想になります。少し前に以下の記事の通り、BunがZigからRustに移行した取り組みのような感じです。

www.publickey1.jp


ただ、このやり方も懸案があると思ってます。そのプロジェクトに適したワークフローを作れるか、そしてAIに支払うコストです。

そもそもチェックのやり方をきちんと示さないと、AIのレビューは十分に機能しないリスクがあると考えています。そして何をどのタイミングでチェックすればいいのかは、プロジェクトの特性を理解しないと難しいのではと感じます。
そして、高性能のAIモデルを回し続けるだけのコストが許容できるか。BunのプロジェクトはClaude Fable 5を回し続けられたから実現できた面はある気はしていて、これを標準的なモデルで対応できるのかは現状では未知数と思います。もちろん今後モデルの性能が上がっていくと思うので、どこかで現実的になるタイミングがくる可能性はありますが。

まずは、自分の目の届く範囲でAIを使うというのが、個人的な現実解と今のところは考えています。自分がチェックできそうな範囲でAIに書かせることを繰り返すことで、AIの特性の把握や任せる範囲を広げていくというのが、良いのかなと思ってます。

最後に、マーク・ザッカーバーグがAIを活用してまたコードを書き始めたというのが少し前に記事になりましたが、個人的にはこれは良いことと考えています。コードを書くのはITエンジニアの特権ということではないですし、様々な人がAIを活用してシステムを改善していくことは良い方向なのではと感じます。

gigazine.net

ダークなことを許す風潮は危ういと感じる

少し前に令和の虎の林氏が、以下のような投稿をしてました。これについて、思うところなど少し書いてみたいと思います。

この世の中は、善だけで回っているわけではないです。ダークなことも、やはりあるとは思います。ではダークなことがあるからといって、ダークなことをやっていいというのは違うかなと感じます。他の人がやってるから自分もやっていいという論理は、あまり筋がいいとは言えないと私は考えます。

また、法律に触れてないからよいのではという意見もあるかもしれません。しかし、以前の記事にも書きましたがそもそも法律は事細かにルールを定めるという位置付けではなく、法律に書いてなくても人に迷惑や不快に感じさせることはあるわけです。林氏が言うような、いわゆる対立など人が快く思わないことで、インプレッションを集めることが手段として適切なのだろうか。情報発信は有益だったり楽しかったりすることが、基本線であるべきと私は考えてます。とはいえ、投稿内容で人が不快に感じることをゼロにするのは難しいですし、ダークな内容である方が人の注目を集めることが容易ではあるのはその通りと感じます。

ただ、そのような状況だからといって、開き直ってダークな方向を容認するのは個人的には嫌だなぁと思います。それは見ている人も、そういうことをやっていいんだという風潮になるからです。特に経営者層など影響力がそれなりにある人がやることであれば、真似する人は一定数出てくるでしょう。短期的なインプレッションのために社会全体が良くない方向に傾くリスクがあるのは、やはり止めるべきなのではと私は考えます。

モデルとは何かについて考えてみる

システム開発において、データモデルなど「モデル」という単語を見かけることがあると思います。今回はこの「モデル」という単語について少し書いてみます。

まずモデルの意味について考えてみます。モデルという単語が持つ意味合いは複数あると考えていて、以下の資料の通り、理想、典型、規範、近似などが挙げられます。例えばファッションモデルとかは「理想」のカテゴリーに入りますね。

【モデルとは何か?】
http://dse.ssi.ist.hokudai.ac.jp/~onosato/lectures/DSE19/H19-Model.pdf


システム設計におけるデータモデルやドメインモデルは、近似の意味合いに近いと考えています。例えば紙で行っている業務フローをシステム化する場合、人がどのような業務を手動で行っているかに近似するような設計にすると思います。業務をどのようにモデル化してシステム設計するかは、以下の記事にある通り抽象化や解釈を行う作業が必要になります。

made.livesense.co.jp

抽象化を行い、いくつかの正解(様々な解釈)の中から採用するモデルを決定します。改めて、関係する側面を抽象化して、集中するモデルを決定します。


具体例としては、以下の記事にあるようなデータモデリングが挙げられます。システム化の対象に分析をした後に、どのような特徴があるかを見出すことがモデル化には重要と考えられます。

xtech.nikkei.com

「商品名とメーカー名は不変だけど、商品のサイズやカラーは増減するかもしれない」「商品価格や在庫は変動する」という特徴が見えてくると


AIモデルになると、文脈によって意味が少し変わる感じはします。ChatGPTやClaudeなどの汎用AIはプロダクトのシリーズになるので、いわゆる「規範」としての意味合いが強いかもしれません。一方で自分用に開発したAIモデルは、あるタスクの遂行を目的とすることが比較的多いことから、「近似」の意味合いが強くなる気はします。

モデルという用語はそこかしこで使われるので、このモデルはどういう意図で使ってるか考えると、文脈理解の助けになるかもしれません。

AI時代でのプロセスの重要性

2026年6月現在でも、AIが話題になり続けています。AIに指示すれば、すぐに結果が得られるというのはその通りですし、今後も利活用は広がるでしょう。ただ、結果がすぐ得られるからといってプロセスが雑になるのは、本末転倒でしょう。むしろ結果が早く得られるからこそ、プロセスに価値を置くべきと最近は感じます。
以下の記事は戒名の例ですが、AIで戒名をそれっぽく作るのは難しくないでしょう。ただ、果たしてそれっぽいものに対して価値はあるのか。実質的にプロセスの無い成果に意義はあるのか。

shueisha.online

最終的に、ご家族やお寺が一緒になって『あの人らしい漢字はなんだろう』と考え抜き、お寺から手渡しで授与される。その『人と人との繋がり(プロセスの物語)』こそが本質であり、テクノロジーに全てを委ねて自動化・効率化してしまってはならない境界線

作業をAIに行わせるにしても、そのプロセスは大事と考えています。どのようなプロセスでどの工程でAIを活用するのか。AIをとりあえず使うことは全否定はしませんが、業務に適用する以上はプロセスの棚卸しは行うべきと感じます。
このプロセスの設計をスキップしてAIを思考停止で使うことは、無駄な手戻りや成果物の品質に関わると考えます。プロセスの設計イメージとしては、以下のプロセスマイニングに手法が参考になると思います。

www.ey.com


例えば以下の三菱電機の品質不正のように、やらなくてもいい作業がプロセス上に存在することも考えられます。ただ、プロセスを変えたくないという気持ちはわかります。変えるには組織の人と合意を取るなど、労力を使うからです。ERPの導入においても、標準のプロセスに日本の会社は中々合わせるのが難しいという話もあったりしますが、プロセスを変えることの大変さという面はあるかなとは感じます。

monoist.itmedia.co.jp


今の時代は、実作業はAIにシフトしていくことが考えられます。今までは人間のためのプロセスでしたが、AIを活用するためのプロセスに変えていくような動きは出てくるでしょう。なのでAIの活用がさけばれている今こそ、プロセスの再設計を行うチャンスと個人的には思います。

以下の記事に挙げられているAIプロセスマイニングは、アプローチとしては面白いと感じます。プロセスの分析からAIに行わせることで、人間のバイアスをある程度取り除くことは期待できるからです。ただ、もちろんAIの出してくるものは絶対ではないので人間の判断は必要にはなると考えてますが、それでも硬直したプロセスを変えるとっかかりにはなるかなとは感じます。

speakerdeck.com