とあるIT屋の独白

ITや経営について主に書きます

努力について考えてみる

努力することは大事だと思いますが、努力したとして結果がついてこない時はあるでしょう。以前に以下で記事に書いた通り、遠回りのようなことも時にはあると思います。

toaruit.hatenablog.com


努力は意識せず結果として努力となった的な感じだと、好ましくはあります。ただ、自分に合うようなものが、そう簡単に見つかるかと言われると微妙ではあるでしょう。ある程度は我慢して努力をするという場面は出てくると思います。
この「努力」をもう少し掘り下げると、以下の記事の通り「強度」、「持続性」、「方向性」の観点に分解できます。自分が好きな分野であれば、強度や持続性は満たせるかもしれません。ただ、個人的にはこの中で一番大切なのは「方向性」となると考えています。そして、この記事に触れられている通り、方向性を正しく設定するのは簡単ではありません。

career-research.mynavi.jp

努力のベクトルを見出すことは、実際にはかなり難しい作業です。ベクトルが無数にあるために、その中から適切なものをチョイスするには、一定の経験や知識が求められます。

では経験や知識がない状態で方向性を定める、となった場合どうすればよいか。他の人の言われた通りにするというのも選択肢の一つではありますが、今の時代はうさんくさい人も世の中に多くいるので鵜呑みにするリスクもあるでしょう。もちろん他の人を参考にすることは全然悪いことではないのですが、自分なりに検討することも大事と思います。その際に挙げられる観点を、個人的なものですが以下に挙げてみます。

1. 努力した結果として実利が見込めるか

一番わかりやすいのがお金ですが、努力した先に実利が見えない状況というのは、キツくなる可能性はあります。お金以外にも、実利として健康や人脈といったものが挙げられますが、努力した先に何があるかは意識しておくのがベターかなと思います。

2. 強度や持続性が維持できる分野か

実利が見込めても、全く興味が無い分野とかではやはりキツくなるかなと思います。とりあえずやってみるというのも大事ではあるのですが、自分の適性や嗜好を鑑みて方向性を決めていくというのも大事かなと考えています。

3. 経済的に問題ない範囲で投資できるか

努力するにも前提としてお金がかかるものもあります。例えば弁護士を目指すといった場合は、ロースクールなどに通う費用や教材にかかる費用は必要となるでしょう。最初は経済的に無理がない範囲から始めるのがベターだと思っていて、いきなり多額の資金を投じるのはちょっとリスクがあるかなとは感じます。

4. 倫理的に問題ないか

これは一番重要と私は思ってるのですが、法律を守ることは当然として社会通念上問題ないかは留意すべきと思います。昨今は粗悪な情報商材やAIで稼ぐといったものもあるとは思いますが、そういうのに手を出して本当に大丈夫かというのは立ち止まってほしいです。自分は努力してるつもりでも、人に迷惑をかけてしまうということもありうるので、危ないなと思ったら引き返すことも大事と感じます。

上っ面だけの抽象について

以前に抽象的な話と手法論について書きました。その時は、抽象的な話でも手法論を組み合わせると、なんか具体的に見えてしまうというようなことを書きました。今回も似たようなテーマについて書いてみます。

toaruit.hatenablog.com

抽象的なことがダメというわけではなく、抽象的な言葉の羅列しかなく具体の考えがないのがダメと感じています。ここではそれを「上っ面だけの抽象」と呼称します。昨今は、この上っ面だけの抽象がもてはやされている感じがしますが、これについて個人的に事例的なものをいくつか挙げてみます。

一点目は以前に以下の記事に書いた、いわゆるダークなやり方が許容されることです。行き過ぎたアテンション・エコノミーと、私はとらえています。これが手法として正当化されると、具体を詰めるよりもとりあえず注目を集めることにフォーカスされがちと感じます。
SNSマーケティングをするなと言ってるわけではなく、内容にも重点を置いて活動するべきと考えます。ダークなことをせずとも、きちんと具体を詰めて発信し認知を得る姿勢がまずは大事なのではないでしょうか。

toaruit.hatenablog.com


二点目はAIの普及です。私がここで言及するまでもなく、AIで生成した文章やコンテンツを仕事でも使うことは珍しくなくなってきたのではと感じます。たしかに、AIは抽象的な指示でもそれっぽいものを出してくれますし、これでいいかなとなる気持ちはとてもわかります。
ただ、それっぽいものができたから、人間は深く考えなくていいという思考は良くないなとは感じます。成果物を隅々までチェックするのは厳しいかもしれませんが、その成果の具体に対して向き合う姿勢を持たないと、上っ面の抽象に終始してしまうリスクはあると感じます。

三点目は以前にも記事で取り上げた、スタートアップの資金調達ラウンドの手法です。前にも書いた通り、全ての事業が資金調達ラウンドのフローに乗せる必要がないと私は考えてます。必要性が無いのに、資金調達を無理にやるような姿勢は思考停止と感じます。このような風潮は、結果として聞こえのいい抽象論で投資家から資金調達したもん勝ちみたいになってしまい、それは以下の記事で言及されている通りと思います。

biz-journal.jp

シード段階から投資家も資金量も層が厚くなり、詰めの甘いまま多額のエクイティをまず狙いにいってしまうようなケースも散見される。


少し考察すると、具体に向きあわずともそれで良しとしてしまう周辺環境が、よくないのではと感じています。もう少しそれを掘り下げると、それはいわゆる権威的なものに対して価値を置きすぎていることではと考えています。
ある意見について、誰が言ったかという点はもちろん重要です。一方で、その意見の内容についても重要です。ただ、昨今はこの内容について軽視されてしまう風潮が、しばしば見受けられます。それは例えば「インフルエンサーが言ってるから正しい」とか「スタートアップで資金調達できたから正しい」みたいな、いわゆる権威というか箔のようなもので判断してしまう傾向です。

権威のみで判断することは、意見をいう側も受け取る側も楽でしょう。とりあえずそれっぽい抽象的なことを言えば、賛同を得られるし賛同もしやすいかと思います。しかし、一番大事にすべきは、自分自身の意見ではないでしょうか。それは世間がもてはやす権威とは異なるかもしれません。前に以下の記事で書きましたが自分の正論は何かを考え続けること、そのことが具体へのフォーカスにつながるのではと私は考えています。

toaruit.hatenablog.com

法律を守れば何をやってもいいのか

以前に書いた以下の記事で、道徳について取り上げたのですが、今回も同じようなテーマで、少し前に話題になった中道の政党交付金の問題を取り上げて書いてみます。

toaruit.hatenablog.com


問題の概要としては以下の記事にある通りです。政党交付金の使い道として、借金返済ではなく買掛金の支払い目的だから適法であり、これを踏み倒すのは業者に迷惑がかかるので、残処理として政党を残すというものです。

news.nicovideo.jp

ただ、これに対して世間はほぼ批判一色と言ってよいでしょう。適法なのかもしれませんが、この対応で納得するのかと言われると私も腑に落ちないです。なぜ腑に落ちないのかというのを、何点か観点をあげて整理してみます。

一点目は、政党の存在意義とは何かという点です。ここでは以下の文部科学省のサイトに記載がある定義に沿いたいと思います。

www.mext.go.jp

「一定の政治理想の実現のために政治権力への参与を目的とする結社」のことであり、政治権力への参与を目的としない、単に政治に影響を及ぼすことを目的とする政党以外の政治結社は、政党に含まれないとされている。

つまり理想の実現のために権力を行使するというのが政党の存在意義であり、支払いの残務処理で残すというのは、そもそもの目的から逸脱してます。支払わないと業者が困るというのを盾にして、目的から逸脱した運用をするのが適切なのかという話です。

二点目は、なぜ多額の買掛金で未払いを発生させる状況で、選挙を行ったのかという点です。中道という新しい党を作ることで、そこに最初は資金が無いということは自明であるにもかかわらず、将来の政党交付金を担保にして買掛金にするのはどうなのよということです。
もちろん、それが少額ですぐに返せる状況なら許容範囲なのかもしれませんが、何ヶ月もかけて支払うようなやり方が果たして適切なのか。そもそも支払いを長期間待ってもらうようなことは、買掛金ではなく借金ではないかという意見もあると思うし、個人的にはかなりグレーなやり方をしたなという印象です。

三点目は、中道の議員は政治資金(裏金など)について、厳しい姿勢をとっている議員が多かったという点です。他に対して厳しい態度をとっているのに、自分のところはお金にずさんというのはそりゃ納得いかんよねという話にはなります。

腑に落ちない点を3点挙げましたが最後に、今回の対応は中道が掲げてた「より良い未来に向けた社会のかたちの再設計」を実現するに、ふさわしい行動だったのか。適法だから問題ありませんではなく、自分達のあるべき姿に沿っていたのか。自分達の行動がよりよい未来や社会につながるのか。今一度、判断や行動を見直すべきではと私は強く感じます。

M&Aとプラットフォーム

日本企業においても、M&Aを行うことは珍しくなくなってきました。個人的にはM&Aを行うこと自体は特段批判など無いのですが、深い考えなしに連発するのは、さすがにどうだろうと思う次第ではあります。
一例としては、以下のような電通が行なったような規模拡大のためのM&Aです。海外の事業を手っ取り早く拡大するために、M&Aという手段を使いましたが、裏目に出てしまった感じです。

toyokeizai.net


海外進出のために一から事業所を立ち上げるよりは、M&Aのほうが効率的というのはまぁ分かります。ただ、海外での事業の拡大のために、同じ事業をやってるっぽい現地企業を買うことが最適か立ち止まる必要はあるでしょう。
ではどのような企業をM&Aすればよいか。一つの観点として挙げられるのが、以下の記事にあるようなGoogleが掲げるような「プラットフォーム」です。買収した企業が、いかにそのプラットフォームを基盤に機能するかという点です。

note.com

Googleは余剰資本を、自社のハードルレートを超える確度でプラットフォームに接続できる資産にのみ投じてきた。接続の絵が描けない買収には、規模が大きくても基本的に手を出していない。

Googleと似たような考え方で、M&Aを行なっていると私が考えているのが日立です。日立はLumadaというプラットフォームを前面に押し出して、サービスを展開するという戦略を近年はとっています。LumadaというのはいわゆるITの基盤であり、これはそのまま売れる代物ではないです。なので、顧客に提案する際は上物を考える必要があり、その拡大のためにGlobalLogicを買収したという流れになります。ここら辺の考え方が以下の記事にあります。

www.itmedia.co.jp

プロダクト中心のビジネスは、モノを作れば世界に展開できました。しかし、当社が強みを持つインフラサービスは『渡して終わり』というわけにいかず、現地のお客さまの課題を深く理解し、共に解決策を探る必要

この観点に沿うならばM&Aを行うにあたっては、まずは自社にとっての「プラットフォーム」とは何かを定義する必要があると考えます。プラットフォームとは何かというと、以下の記事にあるような「価値を束ねる基盤」という考え方が私の考えに近いです。

globis.jp

背景の一つがレイヤー構造化です。デジタル化やモジュール化の進展により、製品やサービスの構成要素が分解され、独立性が高まりました。企業がすべてを一括提供するのではなく、複数の事業者が異なるレイヤーを担う構造へと変化しています。

つまり提供する価値を、自社という枠にとらわれずに定義ができるかということです。提供する価値も時代によって変わるでしょう。例えばAmazonであればネットショッピングが元々の祖業ですが、現在ではAWSのようなインフラ事業も柱の一つとなっています。
環境変化が激しい中で、自社の提供価値を常にアップデートできるかも重要な点と思います。そして価値をアップデートした時に、提供にあたって周囲との関係をどのように構築するか、その際にM&Aという手段を検討することは然るべきと思います。

リベラルとフェミニズムと断罪

少し前に政党の中道が分裂することが発表され、中々リベラルにとって厳しい情勢になってる感じはします。個人的には、さすがにもう少し頑張ってほしいという気持ちはあり、今回少し思うとろなどを書いてみます。

まず、日本のリベラルの中のいわゆる一派のように思えるフェミニズムについて。フェミニズムの思想にも色々な種類があるかと思いますが、大きく分けて以下の記事のような穏健的なリベラル・フェミニズムと少し過激なラディカル・フェミニズムに分かれるかなと思います。

pyxis-limethica.space

 

日本のSNS等でしばしば見かける過激なフェミニズムは、ラディカル・フェミニズム色が強い人たちのように感じます。現代のラディカル・フェミニズムは、以下の記事にある「エコフェミニズム」的な思想がかなり影響してると私は考えてます。環境破壊や戦争は男性優位の社会が生み出したものであり、フェミニズムの最終的な目的はこの社会の変革であるというような考え方です。

www.lifestudies.org

八〇年初頭のアメリカのエコフェミニズム運動をリードしたのは、イネストラ・キングである。彼女の主張を見てみよう。

彼女は言う。地球の環境破壊と、核による人類絶滅の脅威は、いままで女性の身体や性を抑圧してきた男性優位の思想によってもたらされた。その背後には、男性が維持してきた家父長制がある。

さて、今の日本においては、いわゆる家父長制的な雰囲気もだいぶ変わってきた気はします。女性の社会進出も進み、総理大臣も女性がなるところまできてます。
フェミニズムの思想が不要とまではいかないですが、従来の主張を現代において繰り返されてもやはり微妙なところはあります。昔のままの主張をそのまま繰り返すようなフェミニストがいるから、以下の記事のように、おかしいという感想を持つ人が増えるのではと思います。

note.com

ふだんは散々他人を攻撃し、「こんなに私は強い!」とアピールして支持を得ているのに、なにかあると都合よく「私は弱者、被害者」とキャラクターを180度反転

そして、フェミニズムに限らずリベラルの人にある傾向として、とにかく考え方が異なる人を批判する姿勢があると受け取られてるように感じます。以下の記事のように、それは断罪に見えてしまうかもしれません。断罪的なやり方は、リベラルではなく時には保守にも見られるスタンスではありますが、日本においてはリベラルがやることという印象が強くなってしまってる雰囲気はあります。

nippon.jp

意見の異なる相手を「理解が足りない」「時代遅れ」「無知」と位置づけ、説得ではなく断罪によって態度を変えさせようとする傾向

断罪が大衆によって受け入れられる時もあれば、拒否されることもあるでしょう。ただ現代は、リベラルが言うところの多様性が昔よりも進み、またSNS等により情報や意見が様々出てくる状況です。そのような中で断罪的な手法を繰り返すのは、マジョリティには受け入れられにくくなってる環境にあるかもしれません。

私のフェミニズムやリベラルの日本での立ち位置は上記のような所感ですが、その思想自体は個人的には嫌いではないです。アメリカのトランプのように、いわゆる家父長制の先祖返りのような人がトップになって良いのかというと、微妙な感はあるようには思います。それを断罪的なスタンスで批判するだけでなく、どうすれば戦争やいざこざを減らせるのか建設的な意見を述べていく姿勢が大事かなと考えてます。いわゆる争いの火種がそこかしこにある情勢の中で、リベラル的な考え方は大事だと思うし、政治家もただ争いを煽れば注目を集められるという考え方から脱却してほしいものです。

ICC(国際刑事裁判所)と日本

少し前にICC(国際刑事裁判所)の赤根所長が、トランプから制裁を受けたことが話題になりました。ICCは、私もそうですが日本人にはあまり馴染みがないかなとは感じます。そもそもICCとはどのような位置付けで、日本との関係や私の所感などを今回書いてみたいと思います。

ICCの概要としては、以下の記事にあるような戦争に付随する罪の責任を追及する機関となります。そして、国家ではなくあくまで個人に対するという点も重要です。

www.keio.ac.jp

ICCの任務は、ジェノサイド罪(集団殺害犯罪)・人道に対する犯罪・戦争犯罪・侵略犯罪という4つの犯罪を行った個人の刑事責任の追及である。

日本とICCとの関係で言うと、以下の記事にある東京裁判が挙げられます。東京裁判については様々考えがあると思いますが、戦勝国が敗戦国を裁くというのは個人的には不平等と考えています。そして第二次世界大戦中は無かった戦争犯罪の罰則を戦後に作って、個人を裁くというのは果たして中立的なやり方なのかという点も、記事では挙げられています。
そういった仕打ちを過去に受けた日本が、ICCの意義を唱えていくというのはとても重要と私は考えています。

diamond.jp


とはいえ一方で、現状ICCに果たして実効力的なものはあるのかという疑問が出るのも致し方ないと思います。実際にロシアのプーチンやイスラエルのネタヤニフは戦争犯罪を行ったとICCではみなされていますが、特に勾留などもされてなく自国でトップを続けています。また以下の記事の通り、2026年8月時点においてはアメリカや中国といった大国もICCに加盟していません。

d4p.world


では現状そのような状況でICCに存在意義があるのかと言われると、個人的にはあると考えています。なぜアメリカがICCに反発しているのか、それはICCの存在を恐れているからだと私はとらえています。ICCに戦争犯罪と認定されすぐには勾留などされなくても、将来どうなるかは分からないという抑止力的なものは与えることができるし、何より国際機関に戦争犯罪者と認定されること自体がその人の評判を下げることにも繋がりはするでしょう。

www.kyodo.co.jp

実践が伴わない刑事訴追には、その効果を上回る弊害があるかもしれない。ただしそれは短期的に見た結論であり、法の強みは、一個人の人生をも軽く超えて、未来において執行されることが予定されるところにある。その意味では、政治性という議論を超えたところに、国際刑事司法は鎮座しているのかもしれない。

なので、アメリカのような今でも紛争に介入してるような国は、自国民が戦争犯罪と認定されるリスクを嫌うと感じています。ICCは日本国内でも賛否が分かれる存在かと思いますが、私はその人が保守を自認しているならICCを支持すべきと思います。この点はアメリカの保守とは大きな違いかと思います、戦勝国であるアメリカと敗戦国である日本、戦争に対するとらえかたが変わるのは当然とは考えています。
それは戦後保守の重要な論点とも言える東京裁判のことを、どうとらえているかということにもつながると考えています。戦勝国にとっては当然のことではあるかもしれませんが、敗戦国にとっては戦争犯罪を戦勝国が勝手に裁くことなど許されないととらえるかもしません。個人的には、日本人であり東京裁判のようなことを繰り返させてはいけないと考えている人であれば、ICCを何とか維持しその権威の確立に奔走してもらいたいなとは感じます。

社会の複雑性と説明の意義

前回の記事では自己責任と説明責任について取り上げ、日本においては説明責任の意識の希薄さのようなものがあると書きました。

toaruit.hatenablog.com


今回はこの文化的なものを、少し社会的な視点で書いてみたいなと思います。

説明を省くのはコンテキストが共有されている状態だから、コミュニケーション効率がいいという意見はあるでしょう。高度成長期の日本の成長は、このコミュニケーション効率の良さが要因の一つとも考えられます。
ただ、以下の記事にある通りこのコンテキストが共有されている状態は、いわゆる共同体の存在が大きかったという観点はあります。つまり小さい頃から同じ時間を過ごした人達なら、そりゃ説明なんかいらんよね、という状況です。

www.nakahara-lab.net

当時、地方にある工場では、村落共同体の人員構成員が、そのまま工場の職場構成員になるような事態がまま見受けられました。要するに、上司も村の人なら、部下も村の若い衆。職場がそのまま村落共同体を意味していたところが少なくなかったのです。

加えて当時の時代背景として、以下の記事にある通り社会の複雑性もそこまで高くなかったという面はあるでしょう。年長者が積み上げたものを若い人達に伝えれば、それがスキルとして成果が出せる状況にあったのではと感じます。なので、共同体で培われたものを伝承していくような生活・職場環境が整えられていれば、わざわざ説明なんかしなくていいという雰囲気にはなるでしょう。

【「日本的雇用慣行」の成立と定着】
https://www.mri.co.jp/knowledge/insight/20151023.html

人々の嗜好は画一的であり、経済はキャッチアップの過程にあった。企業としては、安価で質の高い労働力が正確な仕事をできることで競争力を高める方向を重視し、その結果として企業内として長期的に人材を育成

それでは、現代(2026年8月時点)においてはどうでしょうか。社会の複雑性も昔から比べると格段に高くなってるし、昔からの共同体のようなものも減り、環境変化の速さによりスキルの陳腐化も起きやすくなっていると感じます。そのような状況で共同体のような思想を持ち出しても上手くいかないだろうし、以下の記事のように新しく入った人がなんとなく腑に落ちないということもあるのではと思います。

note.com

教育も十分とは言えず、「見て盗め」「体で覚えろ」という暗黙のルールが残っている。わからないことを聞きづらく、失敗しても、誰もフォローしてくれない。

というわけで、今の時代は「説明」することの意義が昔より高まっていると考えています。そして以下の記事にある通り、説明する上での「具体」というのも重要と思います。

www.idp-inc.co.jp

例えば、あるメンバーが「みんながこのプロジェクトに協力してくれている」と発言した場合、実際には全てのメンバーが同じ協力度合いでプロジェクトに参加しているわけではありません。一般的な表現によって、特定のメンバーがどれだけの貢献をしているのか、誰が協力に乗り気でないのかといった具体的な情報が欠落しやすくなります。

組織において様々な人がいる現代で、曖昧な表現から齟齬が生まれるということはままあるとは感じます。実際に私もコミュニケーションが上手なほうではなく、ふわっとした伝え方だとあまり伝わってないなという経験もしてきました。したがって説明しなくても伝わるだろうという意識から、説明責任を果たすという意識にシフトすることが必要な時代になっているのだと、自戒を込めて記事として残しておきます。