とあるIT屋の独白

ITや経営について主に書きます

ポピュリズムの膨張に対する懸念

政治を行う以上は、いわゆるポピュリズムが起きてしまうことは致し方ない面はあります。結局は選挙に勝たなければいけなく、ある程度ポピュリズム的な要素も含めないとウケが悪くなるからです。そもそも、ポピュリズムという概念はどのようなものであるか。以下の記事にある通り、良く言えば一般大衆の意見の代弁になりますが、悪く言えば大衆迎合となります。

www.dlri.co.jp

広辞苑でも「一般大衆の考え方、感情、要求を代弁しているという政治上の主張、運動」と解説されています。他方で、実際には多くの場合、「大衆迎合主義」といった否定的な意味合いで使われています。

ポピュリズムが高まる背景としては、既存政党に対する不信です。不信感が高まっている大衆に対し、ポピュリストは極端な政策を掲げる傾向にあります。大衆としてはこれが銀の弾丸と思ってしまう面はありますが、実際はデメリットもあるかなとは感じます。

research.nira.or.jp

政治への不信が高まったことで、政治局面を一変させる政策を掲げるポピュリズムが台頭したのである。しかし、ポピュリズムが招く極端な政治は、大きく政治を変化させるが、政治的な不安定さを招くことがある。

極端な主張が多くの支持を集めてしまうと、権力の集中や対立の深化につながるリスクがあると考えています。ポピュリストは、対話よりも自身の主張を正当化するような傾向にあるとみられるからです。アメリカのトランプは、まさにその傾向があると感じます。自分に反対する意見の人を要職から外し、対外的には対立を煽るような行動をとります。

blog.smartsenkyo.com

ポピュリズムは、カリスマ性を持つ強い指導者が大衆を率いて成り立っていることがほとんどです。そのため、その指導者に権力が集中し、独裁に陥る危険性があります。

また、国民の不満や不安を煽り、敵をつくる傾向にあるので、社会の分断を生むことがあります。

ポピュリズムでも、選挙で勝てばそれが民意という意見も分かりますが、選挙で勝てば自分達の好き勝手にやっていいというわけではありません。現実世界には、ポピュリストの極端な政策によって不利益を受ける人や、そもそも支持してない人も存在するでしょう。ポピュリズムが膨張しかけている段階において、いわゆる少数意見の尊重は極めて大事になってくると感じます。

globe.asahi.com

投票で決めることは大事ですが、投票だけですべて決めていいわけでもないのです。『民主主義イコール多数決』ではない、というところをしっかり認識する必要があると思います。

冒頭にも書きましたが、私はポピュリズムを全否定するわけではなく、むしろ一定数はこのような人が存在するほうが自然ととらえています。ただ、それが膨張してしまうと良くない方向に行くリスクが高くなり、我々大衆がどこかで歯止めにならないといかんなぁと感じる今日この頃です。

挑戦してない人が挑戦する人を批判するなという主張について

何かに取り組んでいる人に対して批判すると、「挑戦してない人が挑戦している人を批判するな」みたいな反論がSNS等であるかと思います。もちろん挑戦する人はできれば応援したい気持ちはわかるし、それを馬鹿にするという行為はいけてないなとは感じます。

ただ、少し冷静になってみると、批判する人も挑戦すること自体というよりは、その内容について批判してることが多い気はします。特にその挑戦が周囲の人に悪影響をおよぼしそうな場合は、批判がくるのも致し方なしな面はあると思います。具体の批判に対して、挑戦という抽象的な概念を持ち出して反論するというのは、なんかごまかしてるんじゃないかという疑念は生じる気はします。
そもそもですが、何を「挑戦」とするのかはそれぞれの人の考え方によって変わると思います。借金などして大きなリスクを取って起業するだけが、挑戦とは私は考えません。リスクを抑えつつ物事に取り組むことも、人によっては挑戦の範疇に入るのではないでしょうか。なので誰が挑戦しているかしてないかというのは、人それぞれの価値観によって異なると私は考えます。主観的な判断で、人を色分けしたものをベースに主張をしているということになると思います。

まとめると「挑戦してない人が挑戦している人を批判するな」のような反論は、主観的な観点で具体性も欠けており、この反論に何か意味があるようには個人的には感じません。

ペアプログラミングについて思うところ

ITの現場にいると、ちょくちょくペアプログラミングの取り組みを行う機会があるかもしれません。私も何度か行う機会はあったのですが、自分が教育係みたいになってしまって、果たしてこれはペアプロなのかと感じてしまいました。。

以下の記事で触れられている通り、ペアプロの相手をどうするかはけっこう大事と思います。私の場合はピンポイントでやるというケースが多かったので、そこまで強いストレスにはなりませんでしたが、毎日ペアプロやれと言われたら、たぶんしんどいなぁと感じるところではあります。

qiita.com

あなたが運転する車に、あまり仲良くない人間を乗せて、ふたりきりで8時間ドライブをしてください。最初は世間話や当たり障りのない会話でごまかすことができるでしょう。しかし、人生の価値観や趣味などの深い話では価値観が合わないため、会話が続かず、次第に沈黙が多くなっていくでしょう。

そもそもペアプロの目的は何なのか。知識の共有やレビューコストを削減する、といったものはとりあえず挙げられるでしょう。もちろんそれを否定することは全然しませんが、個人的には本来的なものは少し別なところにあると考えています。
それは、以下の記事で野中郁次郎先生が触れられている「知的コンバット」です。最終的には、組織で「知」を生み出すことにあると考えています。

hello.coacha.com

双方が感じた異なる直観を、真剣勝負で何度もぶつけ合いながら、ようやく「こうとしかいえないよね」というコンセプトにつながっていくという感じです。この「共同化」のプロセスがない限り、組織で「知」を生み出す、イノベーションが起こるということはあり得ません。


組織で知を生み出すために、どのようなペアプロがよいか。個人的には以下の記事にあるような、突発的なペアプロが良いと感じます。ペアプロにおいても直観的なものが大事で、率直な意見が言える雰囲気だと目的にも近づけそうな気はします。

japanrock-pg.hatenablog.com

どういうときに成果がでるのでしょう。それは、「突発的ペアプログラミング」でした。以前は「計画的ペアプログラミング」でした。

とは言いつつ、そのような関係をすぐに築くのは難しいでしょう。チームビルディングの最中はどうしても、計画的ペアプログラミングっぽくなると思います。このチームビルディングの手助けを行うのが、スクラムの手法と私はとらえています。
ただ、スクラムはどうしても手法論によりがちで、本来的にあるべき姿を見失うこともあるように感じます。ペアプロも義務的にやるのではなくいわゆる自然発生的に、必要だからやるという雰囲気作りが大事とは思っています。手法だけやればチームが良くなるということはなく、どう良くしていきたいかという意識がまずは重要なのではないでしょうか。

要件や計画をころころ変えるのはアジャイルではないと思う

以前に、考えなしにとりあえずやってみるという行動について、否定的な記事を書きました。
toaruit.hatenablog.com

その時は、例えばアジャイル開発であれば探究心的なマインドが必要と書きました。今回もほぼ同じテーマなのですが、もう少しアジャイル開発にフォーカスして思うところなど書いてみます。
変化への対応は、アジャイル開発を導入する主目的の一つと思います。ただ、この「変化」というのが人によって捉え方が異なると私は感じていて、認識が合わないままに開発がダラダラ進むことはあるかなと感じるところではあります。
では、アジャイルにおける変化とはどのようなものか。個人的には以下の記事にある「ユーザーのニーズの変化」、「競合環境の変化」、「最適解が不明」といったものが挙げられるかなと感じます。

globis.jp


一番厄介なのは、最適解が不明というケースと考えています。最適解が分からないからたいして深掘りせず走り出す、というのはかなりのアンチパターンなように個人的には思います。以下の記事のように、作りながら考えるような姿勢に偏るのは、無駄が多くなるというのはその通りと感じます。

www.intra-mart.jp

発注側と開発側で期待している成果物が異なっている場合、後工程で大きな修正が必要になるケースも少なくありません。アジャイルだからといって「作りながら考えればよい」という姿勢に偏りすぎると、無駄な試行錯誤が増えてしまいます。


そうなると計画なんてあって無いようなものになり、以下の記事にあるようにプロジェクト全体もグダグダになります。要件や計画を変更するなというわけではなく、メリハリをつけることが大事と考えています。スクラムには「リファインメント」や「プランニング」というプラクティスが用意されてますし、秩序なく思いつきのような感じで進めるのはアジャイルではありません。
メリハリなくダラダラ進めていく開発はメンバーの士気も下がりますし、本来のアジャイルの姿から程遠いものになると感じます。作りながら考える感じで進めて、成果物の深堀りが本当にできるのかはあらためて考えるべきことと思います。

zenn.dev

誰にもプロジェクト計画書は承認されないまま、なし崩し的にプロジェクトは始まり、バックログはプロダクトオーナーによって、頻繁にリファインされ初期のプロジェクト計画から大きく変更

イランとイスラエルの対立について

2026年のイラン戦争について、前回はイランの核開発について書きました。

toaruit.hatenablog.com

今回はイランとイスラエルの関係について少し深堀りすることで、戦争の背景について思うところを書ければなと思っています。

以下の記事にある通り、イラン戦争のきっかけとしてはアメリカよりもむしろイスラエル側の意思が強かったという話があります。アメリカは公式には否定していますが、イスラエルに巻き込まれる形で戦争に参加というのは、信憑性がそれなりにあるかなとは考えています。

gendai.media

われわれがこの戦争を始めたのは、イスラエルとその強力な米国ロビイからの圧力によるものであることは明らかだ

では、なぜここまでイランとイスラエルの対立が深まったのか。2026年現在のイスラムの体制の前であるパフラヴィー朝の時代まで、まずは遡ります。
パフラヴィー朝は親米の王政で、その時代は表向きは自由な雰囲気を感じさせるものだったのかなと思います。この時はイランとイスラエルは対立してない状態でした。ただ、イラン国内でのイスラム教信者とは相容れなかったようで、宗教指導者は政治から排除されてしまいました。

english-samurai.com

これらの改革は、表面的には「近代的」「合理的」に見えるものでしたが、宗教的慣習や価値観を軽視する側面も強く、宗教指導者層との深刻な対立を生み出します。

重要なのは、これらの改革が社会的合意を経ず、命令として実施された点です。宗教勢力は政治の表舞台から排除されましたが、不満や反発が消えたわけではありませんでした。

その反動からか起きたのが1979年のイラン革命です。こちらは2026年現在にも続く反米の政権です。イラン革命以降にイスラエルとの対立も顕在化していきます。
とはいえ革命直後は以下の記事によれば、イスラエルから軍事支援を受けるなどイラン戦争時よりは関係は深刻な状態ではありませんでした。対立が悪化した要因としてはレバノンのヒズボラの存在が挙げられます。このヒズボラとイスラエルの衝突が、最終的なイランとイスラエルの衝突までエスカレートしていきます。

japanese.joins.com

90年代からヒズボラのテロがイスラエルを恐怖に追い込み始めた。29人が死亡したアルゼンチンのイスラエル大使館爆弾テロ(92年)をはじめ、85人の死者を出したアルゼンチン-イスラエル親善協会建物(AMIA)爆弾テロ(94年)などが相次いで発生した。イスラエルはヒズボラの背後にイランを挙げたが、イランはテロ関連説を最後まで否認した。

では、ヒズボラとイスラエルの関係とはどのようなものなのか。それは1970年までさかのぼって、パレスチナの人民がレバノンに拠点を移したところが一つのきっかけとなっています。PLOの追放を試みるイスラエルはレバノンに侵攻し、そのイスラエルに抵抗するための組織がヒズボラとなります。

chihei.net

特に1970年にパレスチナ解放機構(PLO)がヨルダンを追われてレバノンに拠点を移すと、イスラエルの越境攻撃が増加した。1975年に始まったレバノン内戦の原因の一つが、この分断・対立だった。

イランにとってヒズボラとはどのような存在なのか。イランがアメリカ・イスラエルと直接交戦しても勝てないことは、イランは重々理解していると思います。なのでヒズボラやハマスといった反アメリカ・イスラエルの勢力を支援することで、対抗していくという方針がずっと取られていました。

cmeps-j.net

イランは、主に米国やイスラエルとの直接対決を避け、自国の国益を守るために、イランにイデオロギー的に、ないしは文化的に近しい国や非国家主体を支援し、敵対勢力(イスラエルや米国)との戦闘を彼らにアウトソーシング

 

とはいえ、イラン戦争の直前の時期にはイスラエルの攻勢によりヒズボラもかなり弱体化していきます。以下は2025年時点での記事ですが、ヒズボラが体制の維持に困難な雰囲気が出てきて、イランに頼らざるをえない状況になっていました。

wedge.ismedia.jp

注目すべきは、多数のヒズボラの指導者が殺害された結果、かえって、イランのヒズボラに対するグリップが強まったという点である。近年、ヒズボラはイランと距離を置こうとしているとみられていたが、皮肉にも今回の出来事でイランの影響力が強まってしまった。

ヒズボラの弱体化とイランの介入が、イラン戦争の一因とも考えられます。イスラエルは長年の宿敵であったヒズボラをかなり追い込んでいる状況で、ここでイランを放置してまたヒズボラが息を吹き返すのは避けたい思いはあったと思います。イラン側も経済制裁でかなり弱っている状況なので、他の勢力を支援する余裕がなくなっている状況ではあり、戦争を仕掛けるタイミングとしてはイスラエルが有利な状況だったように感じます。
ただ、反アメリカ・イスラエル感情はイランやヒズボラには根強くあり、戦争が終わってもどう折り合いをつけていくのかというのが課題として残り続ける気はします。

イランの核開発について思うところなど

2026年イラン戦争が始まってから少々時間が経ちます。2026年4月現在、一応は停戦してる雰囲気がありますがまだ情勢は読めない感があります。今回の戦争の発端の一つはイランの核開発です。戦争になるまでこじれてしまった経緯や思うところについて今回少し書いてみます。
イランの核開発の経緯については、以下のwikipediaの記事に詳しくまとめられています。1979年のイラン革命が騒動の発端にはなっていて、2002年の国際社会において問題になる前までは、核兵器の開発を念頭に置いていたと見るのが自然な解釈かなと思います。

ja.wikipedia.org

背景には、イランが地域大国として自覚を持っていること、パキスタン、インド、ロシア、イスラエルといった核保有国に囲まれた中で、生存を図るために必要であるという事情があった

2002年にイランのウラン濃縮が国際社会に知られるようになってから、イランへの経済制裁が強まっていきます。以下の記事にあるように、2002年から10年以上にわたり制裁が強化されてきた結果、さすがにイランも対話姿勢を示します。2015年に核合意が行われ、ウラン濃度を高めないことや経済制裁の解除についてが定められました。

eumag.jp

転機が訪れたのは、穏健派とされるハッサン・ローハニ氏がイラン大統領に就任した2013年6月以降のことです。当時、イランは核開発をめぐり国際的に孤立。経済制裁の影響で国民の閉塞感も高まっていました。このような状況の中、ローハニ大統領は国際社会との対話路線を打ち出し、欧米諸国首脳との会談を再開

ただ、トランプ政権一期目の2018年において、アメリカはこの核合意から離脱します。そして経済制裁をまた課すということで、当然イランは反発します。そこでウラン濃縮も、また行われることになっていきます。

www.bbc.com

トランプ大統領は合意の見返りとして解除していた経済制裁を再び実行すると明らかにした。
これに対してイランは、ウラン濃縮再開に向けて準備を始めていると明らかにした。

その後のバイデン政権においても経済制裁とイランのウラン濃縮は続けられ、事態が打開できずにいました。その間、イスラエルの軍事行動が活発になっていきます。親イラン派のハマスやヒズボラとの衝突から、イランへの直接攻撃にエスカレートします。以下の記事の通り、2024年頃からイスラエルとイランの軍事衝突が激しくなっていきます。そして2026年、アメリカを巻き込んだ大規模な戦争が起きてしまいます。

ja.wikipedia.org


この状況で、なぜイランはウラン濃縮を頑なに止めないのか。個人的には経済制裁が始まってから、兵器開発を目的というよりは交渉材料の一つとして続けたという感じはしています。一度合意が取りやめになってしまった経緯から、イランがウラン濃縮を仮にやめたところで制裁が解除される保証はないという考えはあると思います。そのため、ズルズルと経済制裁とウラン濃縮が続けられてしまったのかなとは感じます。

一方でイスラエルの意図もやはりあって、イスラエルもイランの核開発を止めるという目的もそうですが、根本的にイスラム化してるイランを排除したいという思いは強くあるでしょう。イランがイラン革命の前の状態、親欧米の政権に戻るところまで攻撃を続ける可能性は十分ある気はします。
では、このイスラエルとイランの関係がなぜここまで悪化してしまったのか。次回にもう少し書いてみたいなと思います。

少数意見の重要性

2026年の衆議院選挙では、自民党が大勝しました。元々はスピード感をもって物事を進めたいという意図があるのは理解してますが、ただそれで本来必用なことを省略してしまうリスクはあるでしょう。特に民主主義において必要なのは、少数意見の反映だと私は考えています。この点について、今回少し書いてみたいと思います。

以前にも似たようなテーマで、多数決について以下の記事で取り上げました。その際には、多数決の結果だけでなくその前段のプロセスが大事と書きました。

toaruit.hatenablog.com


以下の記事で取り上げられている三木武夫総理の言葉にある通り、多数を持っているからこそ少数意見を聞く姿勢は大事というのは、その通りかなと思います。

note.com

少数者の意見は、審議の過程を通じて少数者はいろいろ発言をして、しかも、それに対してできるだけ尊重するという態度は必要


民主主義においては多数側の判断で結論が出るのは、仕組み上受け入れるべきことです。だからといって、プロセスを蔑ろにしてよいわけではないと感じます。
一昔前から言われてるダイバーシティの考え方は、このプロセスの重要性と私は考えます。昨今の風潮ではこのダイバーシティが軽視されてる感はあり、ちょっとよろしくないなとは感じます。もちろん一部の声の大きい人の意見が変に優遇されることは、健全ではありません。

しかし、無視をするのも違うとは思います。なので、少数意見をどう取り込むかプロセスの設計が大事と考えます。プロセスを軽視するか ら、少数派の意見は不要だとか、はたまた言ったもん勝ちといった、極端な状態が生まれてしまうように感じます。今の時代にあらためてこのプロセスの重要性に、目を向けるべきではないでしょうか。