とあるIT屋の独白

ITや経営について主に書きます

諦めることと若者の考え方の変化

私はスラムダンクを読んでた世代なので、安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という言葉が、まぁ染み付いてるわけです。諦めることより諦めずにがんばったほうがそりゃいいよね、と大体のスラムダンク世代の人は考えるでしょう。ただ、漫画ではなく現実世界では果たしてそうなのでしょうか。今回はこの諦めることについて、書いてみたいと思います。
最近話題のAdoという歌手による「うっせぇわ」という楽曲。下記の記事ではこの曲は、若者と大人との断絶ということを表現しているという解釈があります。ということは、今の日本の若者世代は大人に対して期待を持っておらず、ある種の自分達の世界観のようなものを大事にしていると考えられます。

gendai.ismedia.jp


昨今の大人達の振る舞いを鑑みると、若者から見放されるのもいたしかたない部分もあります。もちろん、その点は大人は改善しなければいけないのですが、では果たしてこの諦められた大人は、もう単なる邪魔者なのでしょうか。もう少しこの諦めるという心境を掘り下げていきましょう。

諦めるという言葉の語源は下記の記事の通り「明らむ」となっていて、本来的な意味合いとしては「つまびらかにする、明らかにする」ということが元になっています。つまり、時を経たり物事を進めるうちに、自分の特性などが明らかになる中で、今取り組んでいることを断念するということからきているそうです。

www.hiroshima-u.ac.jp

 

「諦める」前には「明らかにする」というステップが隠れています。物事を始めるときは不確定なことが多いので、やってみないと分からないという部分があります。やってみてはじめて明らかになることも多いと思うので、結果として自分に合ってないなといったこともあるでしょう。私も小さい頃スポーツをやってましたが、そもそも走るのがあまり速くないし好きでもないということが分かってきて、その道はないなと感じたことが思い出されます。

toyokeizai.net


 さて、では若者が大人を諦めるということはどういうことでしょうか。これはなんとなくなのですが、若者は今の大人の思考パターンをある程度感覚的に理解しているのではないでしょうか。明らかにならないと、そもそも諦めるという心境に至ること自体ができないはずなので。
たぶんですがパンドラの箱はもう開けられていて、そのパンドラの箱は急速に進んだオンライン化によるものと私は考えます。SNSを当たり前に見ている世代は、大人の明らかに不合理な判断や思考といったものに、うんざりきている人も多いでしょう。今は災いや悪いものが、現在進行形で飛び出している瞬間なのかなと感じます。ただ、今の若者がもう日本はダメだ、こんなところで生きていてもしょうがない、と考えているかというと、私はそうは思いません。パンドラの箱の底にある「希望」みたいなのは、持っているようには感じます。
Adoが流行として取り上げられる側で、YOASOBIが若者の共感を得ているという事実もあります。YOASOBIが表現している内容は、一見してけっこう退廃的なイメージを持ってしないがちなのですが、よくよく一連の歌詞の内容を見ていくと大体最後に救いみたいなのを示していることが多いような気がします。だから、私はYOASOBIが表現しているのは、パンドラの箱を開けてから最後に希望が残る、この一連のプロセスなのではないかなと考えています。下記の「怪物」という歌が一番分かりやすいのですが、他の楽曲も基本的には同じような思想で作られていると私は思います。

www.youtube.com


今の若者が今どういう希望を持っているのか私には分かりませんが、ただ社会の色々なことが変わるタイミングが、ようやく来るのかなと感じています。色々と明らかにされてしまった私たち大人はその変化を邪魔することなく、静かに見守ることが大事なのではないでしょうか。諦めることは終わりではなく始まりであるのだから。

錯覚資産と感情と事実

少し前ですが、錯覚資産を上手く使って世の中を上手く渡る、というのが流行ったと思います。この錯覚資産とは「「人々が自分に対して持っている、自分に都合のいい思考の錯覚」及び、それを引き起こす事実」と、錯覚資産が提唱している人が述べています。

diamond.jp

錯覚資産自体は問題では無いと私は思っています。なぜかというと、自分は嘘を付いてるわけでもなく、ただ人に話せる事実だけを言っているにもかかわらず、周りがそれ解釈した結果、想定以上の評価を得られたというのに過ぎないからです。現に私も、自分ではたいしたことやってないつもりでも、なぜかすごい人みたいな雰囲気になってしまうような場面が何度かあったりしました。
では、この錯覚資産を意図的に作ろうとしてしまうとどうなるか。IT界隈で頻繁に話題になるテックキャンプの「転職成功率99%」というのを例にしてみましょう。99%という数字は、そこそこ名が通ってる会社が言ってる以上は「嘘」ではないのでしょう。ただ、色々なところで指摘されている通り、受講した人全員が母数になるというわけではなく、運営側でフィルタリングをかけた上での数字という話もあったりします。

 
今回の私の記事では特にテックキャンプの批判を目的としているわけではないので、何が本当の事実かはおいておいて、この意図的に錯覚資産を作り出してしまうことが、今テックキャンプに限らず問題だと私は考えています。もちろん、当事者は事実と信じ込んで言っているのでしょうが、その客観性が欠如していて、第三者から見ると嘘はついてないっぽいんだけどなんかそれ違うよね、という気持ち悪い状況が生まれてしまっています。下記の記事で述べられているような、まさに「誰もが感じたいことを感じて、それが真実になる」というのが近い感覚かなと思います。

toyokeizai.net


もちろん、感じたことをきちんと発信することは大事なことです。しかし、事実を度外視したある種の感情任せの発信は、時に事実を歪曲して、またその歪曲された事実が他の人の別の感情を呼び起こすような、負のループに陥ることもあると考えています。
なりたい自分の理想像みたいなのは持ってる人も多いと思います。ただ、自分を良く見せたいという感情が先走りして、実績や経歴等を自分の都合の良いような解釈で人に発信をするのは、やはり悪手だなとは感じます。結局はそれが疑わしいものに見られ、自分も得をしないし相手からも信頼されないといったことが起こり得ます。
だから、我々がまずやらなきゃいけないのは「現実を見る」ことであって、現実を見ないことには正しい方向に感情も向かわないと私は考えています。理想像を作るのも全然良いのですが、理想像の最初のスタートは現実であるべきだと思います。現実から始まらない理想像や感情はやはり虚像にしかならないし、結果として感情任せに事実を歪曲することになってしまうのかなと感じます。

戸籍の目的という観点からの夫婦別姓の考察

2018年に夫婦別姓について私のブログで取り上げましたが、
https://toaruit.hatenablog.com/entry/2018/01/16/022243
それから約3年経ってもこの夫婦別姓は実現してません。これはなぜかというと、当時も書いた通りですが日本においては姓と戸籍が深く関係していて、姓について仕組みを変えるのであれば戸籍の仕組みも検討せざるをえないのですが、この戸籍についての議論が全く深まってないからと私は感じます。一方で戸籍制度を変更するとなった場合に、そもそもこの戸籍制度って何のためにあるんだっけ、というのに立ち戻るのが大事と思います。ので、今回はそもそも戸籍の目的と、その目的に基づいて夫婦別姓の議論について書いてみたいと思います。
さて、まずは戸籍制度や姓の歴史的なところですが、下記の記事に詳しくまとまっています。現代の戸籍制度は明治時代の「家」が元になっていて、戦後に夫婦と子供を姓というくくりで同一の戸籍とするような制度になったそうです。現行の戸籍制度は、「夫婦親子の関係を一覧的に把握できる」ことを目的としていますが、欧米のように個人籍のほうが目的を達成する上では良いのではということも触れられています。

www.law.tohoku.ac.jp


さて、ではなぜ「夫婦親子の関係を一覧的に把握できる」ことが重要なのでしょうか。それは「子供への責任」ということに尽きると思います。昨今、日本でシングルマザーが問題になっています。婚外子の場合は子供は母親の戸籍に入り、父親となる人の認知を受けないと相続権がなかったり養育費がもらえなかったりします。もちろん、男性が拒否をすれば裁判で強制的に認知させるという手段もありますが、中々裁判まで起こすのもハードルが高いと思います。なので婚外子のようなケースを減らして、子供がきちんとした環境で育てられるような制度を実現するのが、戸籍のあるべきと私は考えています。

www.kakekomu.com

 

シングルマザーが今現在で問題になっている以上は、現行の戸籍制度は何かしら改善が必要といえると思います。ただ、この問題が取り上げられずに夫婦別姓の問題ばかりが取り上げられるのは、私は少し気持ち悪さを感じています。戸籍制度の本来的な目的が「子供を守る」ための制度であるはずで、今その本来的な目的が達成できていないことのほうが、夫婦別姓より大きな問題であると考えています。
もちろん、戸籍制度を現状に合ったあるべき方向に改正する上で、結果として夫婦別姓が良いのであれば、それはそうするべきだしそれについて文句をいう人は少ないと思います。ただ、目的や現状の問題点に目を向けず、単純に大人の都合で夫婦別姓をさけぶのは違うかなと感じます。守られるべき大事な子供にフォーカスされて議論されていないのは、少し浅はかではないでしょうか。だから、今のような議論を繰り返される限りは、夫婦別姓はたぶん実現しないと私は思います。

クラウドファンディングの問題点

以前に従来の融資による信用創造の代わりとなる手段として、クラウドファンディングを挙げましたが、

toaruit.hatenablog.com

 

もちろんクラウドファンディングが、無条件で良いものというわけではありません。いろんな人が自由に投資できるという便利な側面があるなかで、負の側面も出てきています。今回はその負の側面についてフォーカスして書いてみたいと思います。
クラウドファンディングにも色々な種類があるのですが、今のところ多いのは「購入型クラウドファンディング」であったり、「寄付型クラウドファンディング」でしょう。クラウドファンディングの仕組み自体が問題というよりは、出資を募る人の見極めやフィルタリングが非常に緩いというのが問題と思います。結果として、下記の記事のような想定していたよりも劣悪な品質のものが送られてきたり、書いてある内容に資金が使われないといった、詐欺に近い事案が発生しています。

venturetimes.jp


もちろんクラウドファンディングは自由度が高いのが利点と言えば利点なのですが、出資者の利益保護も合わせて考えないと、騙したもん勝ちになってしまって、まともな案件が埋もれてしまう懸案もあります。また、その気軽さゆえに金に困ったらクラウドファンディングで集めりゃいいじゃん、という短絡的な思考も生まれてしまいます。人から出資を受け、その責任を果たすという意識をより高める仕組みが必要と思います。
また、下記の記事のようにいわゆる融資型のクラウドファンディングである「ソーシャルレンディング」も問題になっています。問題点は、購入型クラウドファンディングと同様なのですが、資金調達をした事業者が不正に資金を流用して、焦付きが発生しそうという事案だそうです。

www.itmedia.co.jp

 

結局のところちゃんと信頼できるところに出資したり融資するというのに尽きるのですが、それを出資者側が判断できる情報をプラットフォーマーはより充実させるべきと考えています。騙したもん勝ちにさせないような仕組みにしていかないと、いつまでもこういった詐欺事件は減りません。そうじゃないと、まだまだクラウドファンディングは詐欺と言う人がいても、しかたない状況なのかなと感じてしまいます。

APIのセキュリティについて考えてみる

最近のWebシステムの構成だと、フロントエンドとバックエンドで分けて開発するのが多くなってきてると思います。もちろん、軽いアプリなら一つのRailsやLaravelなどのフレームワークで完結させても良いのですが、フロントエンドも凝ったものを要求されることが多いのでReactなどのフレームワークを使って実装することが、求められてきます。
さて、フロントエンドとバックエンドで分けて開発するときはバックエンドはAPI形式で、フロントエンドにデータを渡すことになるでしょう。このAPIについて、今後はセキュリティに対する攻撃者は狙いをつけてくることが想定されます。下記にGoogleが発表したサービスのように、APIの管理やその異常検知といった仕組みが今後求められてくる気がします。

jp.techcrunch.com

 

では、具体的にAPIのセキュリティリスクがどのくらい高まっているかが、下記の記事にまとめられています。APIのセキュリティ担保自体がまだそこまで成熟してきていない中で、攻撃者がそこを突いてきているという感じです。APIは画面と違って視覚的にここにリスクがある、というのが見えづらいのも一因かなとは思います。

www.atmarkit.co.jp

 

APIのセキュリティを担保する上で、認証の仕組みはキモになってきます。何のシステムかによってセキュリティをどのレベルまで担保すべきかというのは変わってきますが、認証周りは他のサービス(Google等)を活用するのも一つの手だと思います。また、API認証を行う上でトークンの扱いも気をつけなければいけなくて、トークンをどのように受け渡して盗まれないようにするべきかというのも、けっこう大事かなと感じます。

www.trustbind.jp

 

日本のITとモノについて考えてみる

日本のソフトウェア産業は海外に比べると遅れをとってると、けっこう前から言われていることではあります。下記の記事にあるとおり、ハードが主流だった時代は日本はまぁまぁ良い位置にいたのに、なぜソフトウェアとなるとダメになるのかというのは、けっこう面白い考察です。そこには、日本人の特性であったりソフトウェア産業の成り立ちだったり、諸々の要因が考えられるのですが、今回はそんなことを書いてみたいと思います。

qiita.com


元々、日本には下記の記事にある通り、「モノには魂が宿る」という考え方があります。例えば、日本刀とか茶碗なんかは分かりやすいですが、職人が手間暇かけて渾身の一作を作るみたいな雰囲気です。ビジネスというよりは、どちらかというと芸術家のほうが雰囲気的には近いと思っていて、いかに良いものを作るかという自己実現的な領域で職人なんかは仕事しているのかなと感じます。

business.nikkei.com

 

そんな文化を持つ日本のソフトウェア開発は下記の記事にある通り、「製造業」に近い特性を持っていると言えます。つまり、高い品質を志向して、そのソフトウェアが完璧に動くといったことが追求されてきています。ただ、アメリカはその発想とは違っていてソフトウェアは「ビジネスの道具」です。なので、決められたものを完璧というよりは、いかにビジネスとして成り立つ形にしていくかという発想なので、そもそもの出発点は違うかなと感じています。

blog.goo.ne.jp


そして、なぜ日本では製造業の考え方がソフトウェア開発の出発点になっているかというと、元々ソフトウェアがハードウェアの付随品としての位置付けだったからというふうに私は感じています。昔はメインフレームという大きなハードウェアがあって、そのハードウェアの上で動くソフトウェアという考え方な気がします。だから、ITベンダーに発注するときユーザ側は「コンピュータ」というハードを買っているのであって、ソフトウェアを買っているという意識が無かったように思います。

gendai.ismedia.jp

 

ただ、それは昔の話であるにもかかわらず、いまだにソフトウェアはハードウェアの付属品としての位置付けで丸っとITベンダーに発注、という考え方から長い間脱せていないと私は考えています。だから、ビジネス環境やエンドユーザの反応に応じてソフトウェアをアップデートし続けるということに遅れて、ソフトウェアビジネスの主導権をアメリカや中国に奪われてしまったと感じます。
しかし、今の段階で日本が巻き返せないのかというと、そうでもないと私は考えています。ビジネスの道具としてのソフトウェアを追求していたアメリカですが、一方で下記の記事にある通り、それはどうなのよという意見も上がってきています。

itnews.org


今後、ソフトウェアの世界でも「本当に良いもの」が求められてくるフェーズにきているのではないでしょうか。もちろんビジネスも大事ですが、それに加えて「完成度の高さ」や「洗練さ」の重要性も上がってくると考えています。だから、アメリカの手法を真似するだけでなく、独自の哲学や文化的要素を取り入れ、より良いソフトウェアを昇華していくような取り組みが大事になってくると思います。ユーザの目が肥えている中で、いかに良いものを出していくかという日本人の強みを活かしたソフトウェア開発の新しい形が、今後の日本が追い求める一つの姿なのではと私は感じます。

レールに乗ることについて考えてみる

人生のターニングポイントってふと考える時はないでしょうか。過去を振り返ったらあの時がターニングポイントかなと思われなくもないのですが、長く生きてると人それぞれなのかな思います。私は今まで生きてきた中でもそれっぽいのもある気がしますが、まだ明確にこれというのも無い気がしています。
若い時にやりたいことが見つかって、それを続けてこれればそれは幸せなことだと思いますが、そうじゃない人もいると思います。かくいう私は中学・高校・大学と特にやりたいこともなく、かなり適当に過ごしてしまったので、やはり後悔は無くは無いかなという感じです。学生時代はこれといって、何かに打ち込んだ時間を過ごしてはいなかったかなと思います。
もちろん、やりたいことが無いのであれば勉強なんかせずに、まずはやりたいことを探せ、という意見もあるとは思います。ただ、個人的にはやりたいことがなくても、とりあえず勉強して進学するというのも悪い選択ではないと考えています。下記の記事のように、まずはレールにのってみて、ある程度まともと言われてる道を歩くのは今後の人生において無駄にはならないと感じています。

takope.net


社会人になってからの私は、どちらかといえばレールから外れてしまった方かなと思っています。同年代で会社の役職に就いたり、起業したり、私よりも年収もらってる人は、ごまんといると思います。もし仮に私が以前勤めていた会社を辞めずに勤め続けていたら、レールに乗れている状態だったかもしれません。
社会人になってから大きなターニンングポイントのようなものは無い気はしていますが、少しずつですが自分のやりたいことが見えてきた感覚があって、数回転職したのもこのやりたいことを優先したからかな、とは今思うと感じます。下記の記事にあるように、人生のターニングポイントは40歳代が多いという人が多く、もしかしたらまだまだ転換点はあるかもしれませんが。

shuchi.php.co.jp


一方で、この変化が激しい現代で今までレールに乗り続けられたから今後も大丈夫、という保証はどこにもありません。大企業でも平気でリストラを行う時代です。自分がレールから外れる恐怖みたいなのは持ってる人も多いと思います。私も今は会社員ですが、いつか会社が潰れるかもしれないし、自分がクビになるかもしれない、というのは頭の片隅にあります。で、その恐怖に打ち勝つには、自分がやりたいことをやれてるという実感だと私は考えています。今やりたいことが少しでもやれていれば、たとえ今の場所にいられなくなっても次探そうという気持ちも出てくるし、やりたいことはがんばれるし、続けていこうという姿勢になると思います。
ただ、次の場所に行こうとする時は、どうしてもある程度「レールに乗っていた」事実が求められてしまうことが多いです。レールに乗っていたことは、将来において選択肢を広げる手段になると思います。だから、今やりたいことが無い人でも、拙速に無理してやりたいことを見つけようとせず、レールに乗るという選択を取るのも全然悪くないと思います。いざ、やりたいことが見えてきて人生のターニングポイントと思われるものが来た時に、乗っていた経験は必ず価値になると私は考えています。