とあるIT屋の独白

ITや経営について主に書きます

疑わしきは罰せずの精神

少し前に池袋暴走事故の初公判が、行われました。その場で被告が無罪の主張をしたことに、憤りを感じた人もいるでしょう。そりゃあ、あんな主張して罪の意識はないのかと、言いたくなる気持ちはメチャメチャ分かります。
ただ、我々第三者は、ことさら被告のことを批判せず、判決が出るまで静かに状況を注視すべきと私は考えます。下記の記事で杉村太蔵さんが言ってますが、まだ裁判中であって被告にも主張を行う権利は当然あります。今回の事件のケースではまぁ無いと思いますが、被告が冤罪の可能性もあるわけで、判決が出ないうちに決めつけるのは、あまりよろしいことではないと私は感じます。

encount.press


日本では加害者に甘いという意見はよく聞きますが、判決が出される前までという話であれば、それは被告はまだ無実であるという推定無罪の前提だからです。例えば自分が冤罪でもかかわらず逮捕され、刑事裁判にかけられた場合、無実と証明するのはむちゃくちゃ難しいでしょう。やってない証拠を出せと言われても、そもそもやってないのに証拠もへったくれもないという話になってしまいます。なので、刑事裁判においては起訴する側が、被告が犯人である合理的な理由を証明する必要があるわけです。

www.nichibenren.or.jp

 

では、なぜ推定無罪の前提なのか。それは日本の刑事裁判では、真犯人を捕まえることよりも冤罪を出さないことに重きを置いてるからです。もし、現在裁判中の被告がメディアに取り上げられ批判されまくったけど、冤罪でしたとなった場合、その人は今後どう生きていけば良いでしょうか。だから、きちんと判決が出るまでは、その人を無実として扱わないとダメなわけで、この前提が今の日本の風潮は崩壊しつつあると感じます。

www.aoba-law.jp


もし、疑わしきは罰するになった場合、裁判をやる意味がありません。その先に待ってるのは無秩序であり負の連鎖です。実際にインドネシアでは司法の場が機能しなくなって、そのような無秩序が起きてしまってます。これは日本においても、他人事ではないと感じます。

www.afpbb.com

 

判決が出てないタイミングで被告に意見を言えるのは、遺族の方や裁判関係者だけです。第三者は、たとえ被告がどんな人間であっても絶対に許すことができなくても、尊厳が与えられるべき人として見なければならないと私は考えます。そうすることが、自分達の社会の秩序を保つことにつながるからです。ネットで簡単に発信が出来るようになった今だからこそ「疑わしきは罰せず」の精神は、我々一人一人が根底に持つべき考えと私は思います。